2005 年
10 月
30 日
カテゴリ:人権・平和のこと
言葉を尽くすことを惜しまない
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10月28日、名古屋の「わっぱの会」視察報告をもとに、障がいのあるなしにかかわらず共に働く・共に生きるということについて、考え合う会を持ちました。 市民セクター政策機構の佐藤鉱毅さんのお話の中で、障害者の「害」という字を「がい」とか「碍」としている場合があるが、どう変えようが「しょうがいしゃ」という呼び方に変わりない、という問題提起がありました。 ちなみに、その解決のために、佐藤さんは「有障者(people with disabilities)」という言葉を創ったそうです。
実は私も文教委員会で、「これからのノーマライゼーションの社会を構築していくべき子どもたちに対して、教育の分野でいまだに障がい児、健常児と呼び分けていること自体いかがなものか」と指摘したところ、 16年度の教育目標では心身障がい児という言葉が「特別な支援を必要とする児童・生徒」となりました。 また、昨年度見直されていた「児童育成計画」の“障がい児施策の充実”という項目に対して、なぜこの分野だけ別枠なのかについても議会で質問しました。 別枠にすることによって、一見支援が充実しているかのように思われがちですが、実は逆に選択肢が限られてしまうというのが現状です。 そもそも子どもにかかわるすべての施策において、障がいのあるなし、虐待を受けている、不登校、ひとり親家庭、外国籍など、いろいろな状況にある子どもを想定した取り組みであるべきである……と言ったつもりだったのですが、なかなか伝わらず、結局は「児童育成計画」の「障がい児施策の充実」が「支援を必要とする児童への施策の充実」となっただけでした。 その後の進捗状況を見ても、どちらも単なる言葉のすり替えに過ぎないという印象は否めません。
ずっと前、子どもと一緒に街を歩いているとき、車イスに乗っている人を見かけ、「あの人、どうしたの?」と聞かれたことがありました。 子どもはまだ小さかったのですが、私は長々と「もしかしたら、ケガをして歩けないのかもしれないし、なにかの病気になって歩けなくなったのかもしれない。とにかく、なにかの理由があって、今は歩けない状況にあるから、車イスを使っているんじゃないかと思うが、どうしたのかはお母さんにはわからない。本当に理由を知りたいんだったら、本人に聞くしかないよ」と答えました。
毎日の生活の中で、子どもから、「なんで」「どうして」といろいろなことを聞かれますが、私はしつこいくらいに言葉を尽くして話すようにしています。 なぜならば、小学校のときの詩の授業で、「単に楽しいとか悲しいと表現するのは楽だけど、言葉に対する思いは人それぞれに違うので、自分の真意が正確に相手に伝わるとは限らない。相手に何かを伝えるためには言葉を尽くすことが大事。同時にそれは、とても難しい」と言われたことが、今でも心に残っているからです。 そのせいか、「しょうがいしゃ」という言葉を安易に使っているこの社会は、本当は知らないといけないこと、伝えなければいけないこと、考えないといけないことを省略してしまっているような気がしてならないのです。
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